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貧乏球団ゆえの悲劇!?広島カープ暗黒時代【ブログ版】

 

 

 2リーグ制誕生の1950年、特定の企業に依存しない経営を行う、市民球団として誕生した広島カープ。1975年に初のリーグ優勝、80年代には投手王国を作り上げ、79年から86年の8年間に日本一3回、リーグ優勝4回の黄金時代を過ごした。しかし、90年代に入ると、少しずつ歯車が狂い始め、2000年代には5位が定位置と呼ばれるような、長い停滞期に入ってしまう。今回はその背景と原因を探っていく。

 

90年代、広島カープ黄金時代の終焉。投手王国の崩壊

出典:Taisyo – photo taken by Taisyo, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4242742による

 1991年、カープは6年ぶりにリーグ優勝を果たす。2年目の佐々岡真司が17勝で最多勝と最優秀防御率。彼と川口和久、北別府学と3人の投手が二桁勝利を挙げ、大野豊が26Sで最優秀救援投手となるなど、投手陣が中心となった優勝となった。野手陣は山本浩二、衣笠祥雄の引退後は、世代交代があまり上手くいかず、しばらく長打力不足に悩まされていた。しかし、この91年には前田智徳、江藤智、野村謙二郎といった若手野手が優勝に貢献した。彼ら若手野手の台頭に、24歳でMVPを獲得した佐々岡もおり、将来は明るいように思われた。しかし、カープはここから長らく優勝から見放されることになる。

 

 90年代中盤に入ると、江藤が93・95年に本塁打王を獲得するなどスラッガーとして成長。前田智徳も外野のレギュラー兼主軸打者として成長。緒方孝市、町田公二郎、金本知憲といった有望な若手外野手の成長も目立つなど、野手陣は順調に世代交代が進む。しかし、代わりに投手陣の高年齢化・世代交代の遅れが目立ち始める。1993年には、先発陣の高齢化による衰え、佐々岡の不調などが重なり、チーム防御率は最下位に転落。チームも最下位に沈んだ。この年を境に、投手王国だったカープの時代は終わり、チーム防御率は4点台を上回る低成績の年が増加する。

 1994年限りで北別府・川口・長富ら先発の柱だった選手たちが退団したことにより、チームは投手陣の世代交代を進めた。大野・紀藤真琴の先発転向、カープ・アカデミーのチェコの抜擢。新人の山内・澤崎の抜擢等、世代交代を推し進めようとしたが、故障者の発生・若手の伸び悩みなどにより、投手陣の人材難の問題は続いた。

 

上図 1996年広島打線成績

 こうしたカープの90年代を象徴するような年が、1996年だった。この年のカープは8人が規定打席に到達するなど、打撃陣が絶好調。緒方・野村・江藤・前田・金本・ロペスらが強力打線を結成し、チームを引っ張った。強力打線に率いられたチームは前半戦で2位と8ゲームを付ける独走状態に入った。しかし、後半戦にその勢いは失速。巨人に逆転優勝を許し、メークドラマの引き立て役となってしまう。チーム打率・得点数はリーグトップだったが、チーム防御率・失点数はリーグ4位。投手陣の層の薄さが後半戦失速の大きな要因となった。カープの90年代中盤から後半は、シーズン序盤は打線の好調さなどで優勝争いに加わるも、中盤から後半に投手陣の層の薄さにより失速し、終盤は優勝争いに絡むことができないという傾向の年が多く見られた。

 そして1998年に5位に沈むと、ここから15年連続Bクラスという暗黒期が始まることになる。

 

定位置となった「5位」投壊・守乱の2000年代

 上図、広島カープ順位変動 1991~2012

 90年代末期から2000年代にかけて、カープ投手陣の崩壊は、さらに手の付けられない問題となっていく。先発は佐々岡・黒田博樹ら以外の投手は安定した成績を残すことができず、出てきても短期間の活躍にとどまった者が多かった。抑えも2003年に永川勝浩が入団するまでは固定できない時期が続いた。こうした投手陣の駒不足は、一部投手の酷使を強いられることになり、それが数少ない投手の故障を招くという負のループに陥った。ここに加え、新たに内野陣のエラーの増加という問題が持ち上がる。90年代末期、野村謙二郎、正田耕三という90年代に二遊間を組んだ選手の世代交代が必要になった。彼らの世代交代が始まる1999年頃からエラー数が激増。1999年~2005年まで失策数7年連続ワースト1位と、守備の乱れが目立ち始める。こちらも失点数増加・投手陣への負担が増す大きな要因となった。

 打撃陣に関しても、FAによる江藤・金本の退団や、主力の高齢化に加え、2000年代中盤セ・リーグ全体の投低打高の影響もあり、90年代中盤ほど強打による優位性を保てなくなった。鈍足のベテラン選手や外国人選手の増加により、得点力をHRに依存するようになり、前田・嶋・緒方ら主軸の好成績の割に得点数が伸びないという事態に。さらに2007年オフに新井がFAで退団し、同時に前田・緒方・嶋ら主力選手の力の衰えが始まった。そして2009年に広島市民球場からマツダスタジアムへの移転し、球場が広くなった影響もあり、得点数リーグ5位、本塁打数リーグ最下位に沈む。ここで、強打のカープの時代は、一時期途絶えることになった。

 暗黒時代のカープは1998年から2011年までの14年間で8度も5位に沈むなど、”5位”が定位置となった。2000年代は、より深い暗黒時代に陥っていた横浜ベイスターズと共に、6位横浜、5位広島が定位置のようになっていた。

 ここからは、そんな広島カープの暗黒時代の原因について見ていこう。

 

暗黒時代の原因① FA制度・逆指名制度等による資金力不足

 

出典:列島宝物館 -文化財の写真集と写真素材- (i-treasury.net)

 カープの暗黒時代の原因としてよく言われるのが、FA・逆指名制度の導入による資金力不足である。1993年、選手の自由意志での移籍を可能にするFA制度と、大学・社会人から指名される選手自身に指名される球団の選択権を与える「逆指名制度」が導入された。カープは、この影響をもろに受ける形となった。

 まず逆指名制度について。この制度は本来、ドラフト外入団や練習生制度を禁止し、裏金や戦力突出を防止するためのものだった。しかし、契約金の上限額がなく、2000年頃には契約金が高騰。また、契約金とは別に功労金や栄養費を渡す球団も出ており、カープはこうした新人選手の契約金高騰の流れについていけなかった。1998年から2006年までの8年間で逆指名・自由獲得・希望枠による獲得選手はわずか4人にとどまった。特にドラフト上位で優先的に確保される大卒・社会人投手は、逆指名・自由枠で指名されることが多かった。このことは、広島の投手陣の人材不足の大きな原因となった。

 続いて、FA制度について。FA制度の導入後、FA宣言して、好条件で残留する。という宣言残留の流れが盛んになったことで、選手の年俸が高騰する土壌が生まれた。これにより、90年代の10年間だけでNPB全体の年俸は10倍になっている。しかし、カープは厳しい財政事情から、再契約金高騰の前例が作られることを懸念し、FA権行使後の残留を頑なに認めなかった。(行使後の残留をカープ球団が認めたのは、黒田博樹、丸佳浩など数例に限られる。)

 1999年オフに江藤智、2002年オフに金本知憲、2007年オフに新井貴浩と、4番打者が相次いでFA制度を利用し、退団。さらに黒田博樹も2007年オフに海外FA権を行使し、メジャーに渡った。

 さらに、資金力不足は、広島が発掘し、チームで活躍した外国人選手の国内他球団への流出を招いた。例を挙げると、ロペス、ミンチー、デイビー、ラロッカ、シーツといった外国人達が国内他球団に流出した。逆に、国内実績のある選手の獲得は、シュールストロム、アレックス、マクレーンなど、旬を過ぎたベテラン選手の獲得が少し行われただけだった。

 

暗黒時代の原因② 若手主力投手の故障・不調

Taisyo – photo taken by Taisyo, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2555341による

 カープの投手力の低下は、逆指名制の導入が大きな原因であると言われているが、実はその前から投手陣の崩壊は始まっていたのである。広島のドラフト指名された選手を見ると、1984年から1993年まで、先発投手として戦力になったのが、佐々岡真司のみという不作の時代であり、これが90年代中盤以降の投手陣の層の薄さ・世代交代の遅れの原因となっていた。この間の上位指名(1〜3位)された投手のその後を見ると、6人も一軍登板がなく退団した投手がいるなど、肩・肘を壊す、投球フォームを崩すなど怪我や不振に苦しんだ投手が多い。この間にもう少し先発・リリーフとして活躍できる選手が確保できていれば、96年に巨人に逆転優勝を許すことや、90年代のうちに広島が暗黒期に突入することは防げていただろう。 

 また、こうした投手の層の薄さは、数少ない若手主戦投手の酷使・故障を招いた。95年に新人王を獲得した山内泰幸。97年に新人王を獲得した澤崎俊和。その他、小林幹英、横山竜士、菊地原毅らリリーフ投手たち。彼ら若手投手は、短期間においては素晴らしい活躍を見せたものの、投手不足のチーム事情による酷使の影響もあり、いずれの選手も故障に悩まされた。(横山、菊地原は30歳前後に復調する)そのため、カープの投手事情は暗黒時代において、一向に改善されなかった。こちらもカープ暗黒時代が長く続く大きな原因となった。

 

暗黒時代の脱出とリーグ3連覇

 2004年に一場事件、2007年に西武ライオンズのアマチュア選手への金銭供与問題と、希望入団枠制度を巡る裏金問題が相次いだため、2006年を最後に逆指名・自由枠制度は廃止となった。以降、カープも有望な大卒投手を上位指名で獲得できるようになり、少しずつ投手陣が整備されていった。

 また、野村謙二郎・緒方孝市監督の下で若手選手が台頭。田中・菊池・丸・鈴木誠也・會澤といった攻守に優れた野手陣を育成することに成功した。

 こうして投打の若手の台頭に加え、さらに黒田・新井のカープ復帰といった、大物ベテラン選手の獲得。エルドレッド・ジャクソン・ジョンソンら、当たり外国人選手の発掘と、育成の成功と比較的安価な形での補強の実現という幸運も重なる。

 こうして2016年、カープは1991年以来25年ぶりのリーグ優勝を果たす。さらに、2016・17・18年と見事リーグ3連覇を成し遂げた。

 一方、現在はその3連覇時の主力の退団・高齢化による世代交代に手こずり、3年連続Bクラスと、苦戦を余儀なくされている。球団努力により、財政事情は2000年代よりはマシな状況になったとはいえ、依然としてFAや外国人獲得の補強資金が潤沢にあるとは言えないカープ。再び優勝争いに加わるためには、ドラフトと育成により、軸となる若手野手・投手が多く台頭することが求められる。過去の広島の優勝時には、センターラインにリーグを代表する野手と、日本人・外国人のスラッガーの存在があった。こうした事例から見ても、まずはセンターラインの野手とスラッガーの育成(もしくは外国人の獲得)が、カープ上位進出の下地となるだろう。

 

参考文献

・野球小僧編集部
『野球小僧remix プロ野球90年代大事典 (白夜ムック Vol. 410)』

・フリー百科事典 Wikipedia
・日本プロ野球記録 ウスコイ企画  http://2689web.com/index.html

 

DAZN

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