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【ブログ増補版】「知られざるヤクルトスワローズの先祖!?国鉄スワローズの誕生と歴史」

 

 今回からは迷球団シリーズとして、プロの世界の荒波に飲まれ、経営陣の事情などに振り回された結果、あまり恵まれなかった、愛すべき迷球団を紹介していく。

 今回紹介するのは、ヤクルトスワローズの前身、国鉄スワローズである。

 

国鉄スワローズの誕生

 国鉄スワローズの誕生は1949年まで遡る。当時のプロ野球は1リーグ制であったが、日本プロ野球初代コミッショナーの正力松太郎はプロ野球の2リーグ化を構想していた。太平洋戦争終結後の復興と共に、野球は日本人の娯楽として盛り上がりを見せていった。

 当時のプロ野球の人気ぶりはすさまじく、新規加入を希望する企業が続出した。既存の南海・阪急・大映・東急の既存球団に毎日・近鉄・西鉄が加わり、太平洋野球連盟、パシフィック・リーグが誕生した。

 対して巨人・阪神・中日・松竹(大陽)に大洋・広島・西日本が加盟し、7球団によってリーグを形成した。しかし、リーグ戦を行うにあたり、偶数の方が都合が良かった。そこで最後に加盟したのが、国鉄スワローズである。

 国鉄、正式名称「日本国有鉄道」は、1949年6月に誕生した。元々、国の鉄道は、運輸省の一事業でしかなかったが、1948年に300億円の赤字を計上するなど財政面が極度に悪化していた。そこで、GHQのマッカーサーは、鉄道事業について独立採算制の公共企業体設置を勧告し、これが国鉄誕生のきっかけとなった。

 国鉄は発足後、財政改善のためただちに職員9万5千人の人員整理に着手。それが引き金となり、国鉄初代総裁の下山定則が謎の死を遂げる通称、「下山事件」が発生。1949年はこの下山事件を含めた国鉄三大ミステリー事件が勃発するなど、国鉄の周囲は大きな混乱のさなかにあった。

写真:国鉄三大ミステリー事件の一つ、三鷹事件の様子

 そんな中、1949年11月日。甲子園で行われた東西対抗野球でジャッジした審判員の西垣徳雄は、帰京のために急行列車に乗っていた。そこで偶然、2代目国鉄総裁の加賀山之雄と再会する。西垣は東京鉄道管理局の野球部監督を務めており、加賀山は同局の人事課長兼野球部長という旧知の仲であった。車内で加賀山は西垣の語る新球団加盟の実情を興味深げに聞き入っていた。

 終点の東京駅が近づいた頃、西垣は加賀山に「どうでしょう、国鉄には管理局ごとに野球チームはありますが、全国職員の士気高揚のために、プロ野球チームをお持ちになってみては」といった。すると加賀山は「それは面白い案だなぁ」と答えた。

 ここから国鉄の球団経営への具体的な道のりが始まった。日本国有鉄道法に抵触するため、国鉄の外郭団体である財団法人交通協力会が主体となり、鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社などの企業の出資により、株式会社国鉄球団が設立された。

 その交通公社が発行する交通新聞によれば、国鉄がプロ野球の球団を持つ意味と効果について、

 ①国民大衆と国鉄の結びつきを緊密にする

 ②野球を通じて国鉄職員の一体化を増進し、相互の緊密感を強化する

 ③健全な精神身体を持つ職員を養成する

 ④国鉄部内ノンプロ野球の発展を刺激する

 と、このように紹介している。

 こうして1950年1月12日、国鉄球団のセ・リーグ加盟が正式に決定した。今泉交通協力会理事長は報知新聞の誌内にて、協力会の一事業として経営するものの、国鉄と密接な関連を持ち、主力選手も国鉄の各鉄道局の有望選手を網羅するようなチームにしたいという方針を述べた。

 ちなみにセ・リーグへの加盟には、1000万円の加盟金が必要だった。国鉄側は免除を訴えたが、セ・リーグ側は「その代わりに選手が寝ていけるように、お座敷寝台列車を作ってくれないか」と条件を出した。当時の列車は冷房のない堅い椅子のボックス席で十数時間も移動しなければならず、遠征は選手への負担が大きかった。このような社会情勢を鑑みると、「お座敷寝台車」は魅力的な加盟記念のプレゼントになるはずだった。しかし、国鉄側は世論やマスコミに気遣い、この約束を反故にしてしまった。

 国鉄球団のニックネームは、国鉄職員の中から募集された。その結果、当時の特急列車「つばめ」から採った「スワローズ」に決定した。「コンドルズ」という募集も相当数あったが、「コンドルは、『混んどる』だから好ましくない、スワローは、『座ろう』に通じるから感じが良い」というどこまで本当なのか分からない、鉄道会社にちなんだ笑い話がある。

 

国鉄スワローズの苦闘と金田正一の登場

 国鉄スワローズ初代監督には球団創設にも関わった西垣徳雄が就任。選手は国鉄の各地管理局が持っていた野球部と社会人野球の選手を対象に、入団テストを行ってかき集めた。それでも戦力が足りないため、有力な大学生の投手を破格の契約金で中退させて入団させるほどであった。

 こうしてスタートをきった国鉄スワローズだったが、初年度の1950年は42勝94敗2分、かろうじて最下位をまぬがれた7位に終わった。この年の8月に、とある選手が高校を中退して入団する。後の400勝投手、金田正一である。

 金田は184㎝の長身から投げ込むまっすぐとカーブが武器。地方球場での阪神戦で、あまりの速さに「マウンドが近いのではないか」と言われ、試合中に測定が行われるという逸話まで存在する。勿論、距離は規定どおりだった。ただし入団当初はノーコンで、入団6年連続で100四球を超えている。

 享栄商高を3年生の夏で中退し、17歳で国鉄入り。夏からの登板で8勝を挙げ、翌51年に同年18歳35日で迎えた9月5日の阪神戦(大阪)。9回を無安打4三振5四球に抑え、ノーヒットノーランを達成。この年齢での達成は現在でもNPB最年少記録である。このシーズン56試合に登板し、22勝21敗 2.83で最多奪三振のタイトルと、リーグ3位の勝ち星を挙げた。このシーズン以降14年連続で20勝を記録することになる。 

 しかし国鉄スワローズの成績は、1950年から1960年までの11年間は全て4位以下のBクラス。初めてAクラスの3位に入ったのは1961年のことで、これが唯一のAクラス入りとなった。投打ともに人材不足が目立ち、この頃隆盛を極めていた巨人に太刀打ちできなかった。この頃の巨人は、投手では藤本英雄・別所毅彦・大友工・藤田元司。打は川上哲治・与那嶺要に1958年からは長嶋茂雄が入団とスター揃いで、国鉄球団存続の15年間のうち、10回もリーグ優勝を果たしている。投打ともに選手層の厚い巨人には到底太刀打ち出来なかったのである。

 

大投手金田正一『天皇』

画像引用:日本プロ野球記録 https://2689web.com

  金田はその後も勝ちまくり、セ・リーグを代表するエースの一人となる。入団当初は「三振か四球か」のノーコンだったが、入団6年目の1955年頃からコントロールが安定し始め、防御率も4年連続で1点台という好成績をマークした。1955年には当時世界新記録となる年間350奪三振を記録。1956年には初の沢村賞を獲得。1957年8月21日の中日戦では完全試合を達成した。2022年9月現在、NPB公式戦内で、左腕投手で完全試合を達成したのは金田ただ一人である。

 1958年4月5日の開幕戦では巨人のゴールデンルーキー長嶋茂雄と対戦。4打席連続三振に打ち取り、延長11回1失点の好投で見事完投勝利を収め、長嶋にプロの意地を見せた。この名勝負は後の語り草となっている。

 そんな金田はバッティングも得意。入団から11年連続でHRをマーク。1962年には年間6HRをマークした。通算38HR。野手顔負けの打力でチームを引っ張った。

 金田はその豪快な人柄と圧倒的な実力のため、監督以上に実力のある選手であり、その存在感から『天皇』と呼ばれた。在籍15年間のうち、開幕投手を10回務めている。現役時代から傍若無人で、監督が交代する前にマウンドに上ったこともある。400勝のうち、リリーフでの勝ち星は132勝を占める。

 1960年9月30日の中日戦は、10年連続20勝の大記録のかかった試合だった。この試合含め残り5試合で、金田にとっては焦りの募る試合だった。この日はプロ入り3年目、未だプロ0勝の島谷勇雄が先発。4回まで中日打線を2安打0点に抑え、2-0で国鉄がリード。しかし、5回、先頭打者に三塁打を許すと、交代を告げられる前に金田は勝手に白線をまたいでマウンドに向かってしまう。宇野監督はその後慌ててリリーフ金田を告げた。結局金田はこの後1失点に抑え9回まで投げ切り、国鉄は2対1で勝利。金田は見事10年連続20勝を達成した。しかし、勝手にマウンドに立った行為はマスコミから非難の的となった。また、金田にリリーフを仰いだ島谷は、翌年以降登板機会を減らし、結局勝ち星を挙げられぬまま引退した。大記録の踏み台にされた投手と、金田が監督の意向を無視する権力を持っていたエピソードである。

 そんな金田だったが、本人は「国鉄がもっとましなチームだったら、500勝はしている」と豪語している。金田の国鉄スワローズ時代の勝敗は353勝267敗、勝率.569。このうち自責点2点以下の敗戦が123試合。46.1%を占めている。そのほとんどがバックの貧打と失策に足を引っ張られたものが多い、と本データを集めた宇佐美氏は指摘している。(データ引用、宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社)これらの数字を見ると、金田の発言にも頷ける。

  

金田正一の退団と国鉄スワローズ消滅

 攻守で選手層の薄い国鉄スワローズは、1950年から64年までの15年間でAクラスは1960年の一度だけと苦戦を強いられていた。

 そんな中、1959年オフに金田はA級10年選手の権利を得た。この制度は、同一チームで10年間プレーした選手には、「A級10年選手」として、自由移籍、またはボーナスを受給できる権利が与えられるという、FA制度の前身にあたる制度である。(B級は同一チーム関係なく10年間現役だった選手が対象、かつボーナス受給の権利のみ)この時金田はボーナスの金額等で球団と揉めたものの、「金田あっての国鉄スワローズ」と西垣元監督と球団取締役の北原代表が熱心に引き留めた甲斐もあり、同年11月に残留を表明した。

 この問題が再燃したのが64年のことである。その前日譚として、産経新聞およびフジテレビジョン・ニッポン放送・文化放送などで構成される、フジサンケイグループの国鉄スワローズ資本参加がある。62年8月、球団の資本金の増資額と、毎年6,000万円の球団援助費がフジサンケイグループから支払われる取り決めがなされた。

 また、国鉄の経営も悪化の一途を辿っており、61年4月から国鉄は運賃を値上げすることとなった。それに伴う国会の公聴会で、「国鉄スワローズは直接国鉄が経営していないとはいえ赤字を出している」という指摘を受け、国鉄も後援会に対して援助していた年間700万円を打ち切ることを表明した。そして、翌62年5月3日には、死者160人、負傷者296人を出す三河島事故が発生。さらにその記憶の冷めやらぬまま、翌63年11月9日、死者161人、負傷者120人を出す鶴見事故が発生。度重なる大事故により、国鉄は世論の激しい批判にさらされた。

 こうして肩身の狭くなっていった国鉄球団は、外郭団体だけでその球団運営を支えるのが難しくなった。そのため、フジサンケイグループへ資金的に依存することになり、影響力も強くなっていった。こうしてフジサンケイグループの意向のもと、63年に浜崎真二、64年に林義一が監督に就任した。球団代表も、金田の味方だった北原代表がポストを追われた。

 金田をとりまく球団の情勢が変化していく中、1964年11月28日、金田は自宅で記者会見を行い、「北原代表を辞任に追いやった人事は納得できない、林監督の下でプレーをしたくない」と公然と監督・フロント批判を行った。この結果、金田は再度取得していたB級10年選手制度を使用し、12月12日限りで国鉄を退団した。12月24日、巨人への移籍が正式に発表された。

 翌1965年、開幕6連敗と成績が低迷すると、国鉄は球団経営からの撤退を表明。この頃にはフジサンケイグループへの経営権移譲は時間の問題だった。5月10日に産経新聞とフジテレビに経営権を譲渡し、「サンケイスワロ―ズ」が誕生。同時に「国鉄スワローズは終焉を迎えた。

 この1964年は国鉄と国鉄球団にとって、大きな岐路となる年だった。10月1日には東海道新幹線が開業。しかし、公共企業体である国鉄が、単年度収支で8,300億円もの赤字に転落した年でもあった。そして、12月にエース金田が退団し、翌年の国鉄スワローズの球団消滅に繋がっていくことになった。

 金田は国鉄球団について人一倍愛着を持ち、鉄道職員も自分の身内と思って大事にした。後年、金田は国鉄球団についてこのように述べている。「ホンマにいい球団だったのよ。弱かったけどな。国鉄総裁をはじめ本社の幹部も、現場の職員も、労働組合も、国鉄一家をあげて応援してくれた。温かい球団だった。おなじ貧乏球団だった広島カープは、今でも存続しておる。スワローズだって身売りしなくてもよかったんや」(引用:堤哲『国鉄スワローズ1950-1964』交通新聞社新書 p.144)

 

国鉄スワローズからヤクルトスワローズへ受け継がれるモノ

写真:1967年、サンケイスワローズ時代の神宮球場 出典:Roger W – Tokyo – Baseball, CC 表示-継承 2.0,https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=46547369による

 国鉄スワローズは1964年5月からサンケイスワローズとなり、1966年からは『鉄腕アトム』をイメージキャラクターに据え、チーム名を「サンケイアトムズ」と改めた。1969年には今度は産経新聞が業績不振となり、株式の一部を売却。1970年には当時ヤクルト本社専務取締役の松園氏が球団オーナーとなり、チーム名が「アトムズ」。翌年に「ヤクルトアトムズ」となった。1974年には「ヤクルトスワローズ」となり、9年ぶりにスワローズの名前が復活した。 そんなヤクルトが初優勝&日本一を迎えたのは、1978年、国鉄スワローズ誕生から29年目のことだった。セ・リーグ優勝を決めたパレードでは、球団発祥の国鉄本社の地がスタート地点に選ばれた。当時の高木国鉄総裁は選手たちに祝辞を送り、選手たちと共に万歳三唱を行った。国鉄幹部は松園オーナーの配慮に甚く感動したという。その後、国鉄は巨額債務を抱え、1987年に分割民営化されて消滅。このパレードが国鉄とスワローズの実質最後の接点となった。

 国鉄スワローズは弱いチームであったが、不人気なチームでは決してなかった。国鉄スワローズは国鉄という当時50万人の職員を抱えていた大企業のシンボルとして、職員や家族を一致団結させることに一役買った。それは当初の国鉄幹部の思惑通りだった。選手たちも各地の遠征に行ったときや、キャンプの時なども各地の国鉄の駅で歓迎を受けたという。1961年には国鉄球団内に応援団も結成され、多くの国鉄職員が団員となった。

 『国鉄スワローズ1950-1964』の著者、堤哲の周囲にいた国鉄スワローズファンは、大抵父親が国鉄職員だったという。SLの機関士・車掌・駅員らの子どもが非番の父親に野球観戦に連れていかれ、野球の魅力にとりつかれた。このような、いわば刷り込みのファンが多くいたそうだ。

 もしあなたが祖父、父、子三代に渡るスワローズファンである場合、その祖父の周囲に国鉄およびその関連・下請け企業に勤めていた人がいるかもしれない。こうしたプロ野球の歴史的な背景を知ることで、読者の皆さまがプロ野球の新たな魅力に気づいていただければ幸いである。

 

今回もおまけブログをご用意いたしました!

「もっと知りたい!ヤクルトの先祖・国鉄スワローズの誕生と歴史」

 

・国鉄幻のフランチャイズ、武蔵野グリーンパーク野球場

・金田だけじゃない!国鉄スワローズ名選手たち!

・制作感想と迷球団シリーズの今後について

 

こちらの内容をおまけブログとして公開しております。

どうぞお楽しみください。

 

泉シロー 2022/9/23

 

参考文献・WEBサイト

 

・池田哲雄編『スワローズ全史~国鉄・サンケイ・アトムズ・ヤクルトの軌跡~』ベースボール・マガジン社

・堤哲『国鉄スワローズ 1950-1964 ~400勝投手と愛すべき万年Bクラス球団~』交通新聞社新書

・田中正泰『プロ野球と鉄道 ~新幹線開業で大きく変わったプロ野球~』交通新聞社新書

・雲プロダクション編『「鉄道と野球」の旅路 1872-共に歩んだ150年史 野球雲Vol.8 』株式会社光邦

・松下茂典「【金田正一監督】『長嶋巨人と日本一を争うのがワシの夢や』」PRESIDENT Online https://president.jp/articles/-/12893

 

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